3. 世界

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 前章では,「人生の意味」の問いに何を用いて答えるかを考え,思考で回答することになった。また,思考はその基礎や土台となる思考体系を示してから行なわれるべきという考えから,思考体系の作り方について考えた。

 本章では,思考体系作りの一環として,まず「世界」について吟味し,思考を遂行する舞台としての世界を設定する。それでは,世界とは何だろうか。

世界とは何か?

 まずは「世界」という言葉の意味を改めて吟味してみる。「世界」という言葉で我々が意味しているものは「枠組み」のことであるように思われる。

 

図3.1 枠組みと内容物のイメージ

 

 枠組みというのは箱や背景のようなもので,その中に内容物(要素)が入っている,存在しているという構造になっている。枠組みと内容物を合わせて「世界」と呼ぶこともあるかもしれないが,「世界」という言葉は本質的には枠組みの方を指し示しているように思われる。ただ,枠組みは内容物とセットで考える方が都合がよいようにも思われるので,本章では,内容物を考慮しながら,思考にふさわしい枠組みを決めることにする。また,枠組みと内容物のセットのことを「世界観」と呼ぶことにする。 

 

\begin{equation*} \text{世界観} \begin{cases} \text{枠組み=世界} \\[5px] \text{内容物} \end{cases} \end{equation*}

図3.2 世界観の構造

 

 「世界」が表す内容はこのようなものであると思われる。では次に,どのような世界が可能な世界なのだろうか。素朴な発想では,物的な世界と心的な世界は可能であるように思われる。また,これらを組み合わせたものも念のため考えておくことにする。したがって,まずは「物的世界観」「心的世界観」「物的世界観と心的世界観の融合した世界観」について,枠組みと内容物を整理しながらまとめてみることにする。

可能な世界設定

 第一に「物的世界観」を考える。これは「客観的世界観」と言ってもよく,その枠組みを「客観世界」と呼んでもよいだろう。まず「物」というのは枠組みとは考えがたく,内容物であると思われる。そして,その枠組みは「物的空間」ということになるだろう。これは「時空間」と言ってもよいと思われる。この客観世界は認識とは独立にあり,その中に認識とは独立に存在する物がある。この世界観では,心は存在しないことになるため,その性質や物との因果関係を述べるといった対象として心を扱うことはできない。これが,純粋な自然科学が体験としての心を解明や説明できない理由だと私は考えている。

 第二に「心的世界観」を考える。これは「主観的世界観」と言ってもよく,その枠組みを「主観世界」と呼んでもよいだろう。「心」というのは意識という枠組みとして機能しており,その中に経験されるものが存在しているように思われる。よって,「心」は内容物ではなく,枠組みの方であるとする。また,この心なるものは「現象」「意識」などと呼ばれることもある。そして,この世界観の内容物なるものを「心物」1と仮に呼ぶことにする 。つまり,心物は認識されたもののことである。また,この場合は逆に経験とは独立に存在するような物は経験できず,存在しないこととする。主観世界の中にあるものはすべて経験の産物であり,経験主体から独立に存在する物ではない。なお,物は認識されたときに心物になるとする。

 以上の世界観を図にしてみるとこのようになる。 

 

図3.3 物的世界観と心的世界観のイメージ

 

 第三に「物的世界観と心的世界観の融合した世界観」を考える。これを「融合世界観」と呼ぶことにしよう。直感的には,これならば科学でも心を扱うことができそうである。しかし,このような世界観はやはり構造的にありえないと私は考える。どうしてか。

 先ほどまでの議論もまとめながら考えてみることにする。物的世界観において枠組みは物的空間,内容物は物であった。他方,心的世界観において枠組みは心,内容物は心物ということになった。表にまとめると以下のようになる。これらを踏まえると,第三の世界観「融合世界観」というのはありえないことになる。

 

表3.1[→] 様々な世界観の内訳と可能性

世界観

枠組み=世界

内容物

可能性

物的世界観(客観的世界観)

物的空間(客観世界)

心的世界観(主観的世界観)

心(主観世界,現象)

心物

融合世界観①

×

融合世界観②

物,心

×

 

 まず,物というのはこの融合世界観においても内容物であるだろう。枠組みとは考えがたい。では,心はどちらの働きをしているのか。もし心が枠組みであったら,経験とは独立に存在するはずの物が経験それ自体と言ってもよい心の中に存在することになってしまう(融合世界観①)。これでは仮に枠組みとしての心が消えたとき,その中にあった内容物の物も消えてしまい,物は認識とは独立に存在しているとは言えなくなる。

 これは,物が心の中にある/存在するということは物が認識されるということであり,それによって物は心物に変わってしまい,物の性質(認識とは独立に存在するなど)を失うからであるのだろう。つまり,認識とは独立に存在する物は認識されてはならない,すなわち心の中に存在してはならないということになる。よって,この融合世界観①はありえない世界観ということになる。

 したがって,やはりここでは,心は枠組みではなく内容物として考えられているに違いない(融合世界観②)。それならば,物と心が並列して存在することになるため,一見すると科学でも心が扱えそうである。ところが,このやり方には重大な欠陥がある。それは,内容物になった「心」はもはや我々の考える心ではないということである。

 まず,やはり我々が「心」と言って指示するのは主観的な意識のことであり,枠組みのことでしかないように思われる。科学が「心」と言って解明しようとしてきたものも,そのような主観的経験のすべてであって,経験された一部の心物などではないという直感がある。「私」という同一性をもったひとまとまりの意識を心として解明しようとしてきたはずである。バラバラになった私の意識の断片を解明したところで,心を理解したとは言えないだろう。

 したがって,「心」と呼べるものはそもそも枠組みであり,決して内容物ではない。やはり,その定義上,「心」は内容物になりえない。それに加え,物と心を内容物とした場合,その枠組みはどうなるのだろう。これらを同時に内容物として成立させるような枠組みというのもどういうものになるのかよくわからない。

 

 かくして,心は内容物になりえない。したがって,第三の世界観「融合世界観」はありえないことになる。なお,ここまでの議論は,私が考えている物と心の性質が前提になっていることを改めて述べておきたい。具体的には,「物は認識できない。」「認識されたものは心物となる。」「心は枠組みであり,内容物になりえない。」「心の中に存在することは認識されることと同じである。」などである。もちろん,これらの前提が異なっていたとすれば,出てくる結論も当然違ったものになりうるだろう。

 さらに付け加えると,この前提はおそらく,物と心をこのように区別し,互いに相容れない,両立しないものとしたいという私の感覚からなのだろう。私にはこう整理したいという直感があり,これは定義なのだろう。

 よって,私が採りうる枠組みとしての世界は私の思いつくかぎり,客観世界および主観世界の2つである。また,これらを同時に採ることはできそうにない。やはりそれぞれの世界は別々で,独立しているべきである。世界を何であれ採るということは,「世界をどういうものとしてみなすか」に対して1つの態度を取ることでもある。本質的に異なる2つの態度を同時に取るということは論理的にもできないことである。いかなる世界設定においても,枠組みは1つであるべきである。したがって,どちらか1つの世界を選ぶしかないようである。

用いるべき世界

 では,客観世界と主観世界のどちらを用いて哲学を含む思考を進めていくべきだろうか。そこで,科学者ならばこう言うかもしれない。

「それなら,客観世界で脳科学をやればいい。」

 確かに,科学的には思考というのは脳の電気信号に還元して考えるのが普通だろう。しかしこれでは,そもそも「思考」というものが間違って解釈されてしまったことになる。やはり,私が「思考」で表現したかったのは,自然科学で扱われるような物としての何かの挙動ではなくて,もっと主観的な体験そのものといったものであった。

 つまり,思考というのは,まず私に意識があって,この意識のある私が,「物事を思考する」という意識的体験をすることである。だから本来は,意識とは独立に存在する物との関係は一切ない。

 そういった「思考」に対する,こうあるべきというイメージがすでに私の中にある。私にとって思考とはそういう意識的,主観的なものである。よって私は,主観世界を選びたい。それでは,なぜ思考は主観的であるべきなのだろうか。これには,2つの理由が考えられる。

 

 理由①:世界は経験によって基礎づけられるべきという素朴な直感がある。

 理由②:主観世界での思考の方法はある程度知っており,現時点ではより容易である。

 

 まず,理由①を詳しく述べる。やはり,ここで1つ大きな前提を置く必要がある。

 

定義
 すべてのものは経験に基づかなければならない。

 

 やはり,このような前提がないと,思考の中での議論や結論が経験とはかけ離れたものになりえ,説得力がなくなるように思われる。したがって,直感的に経験をすべての土台に据えておきたいと私は思う。その理由を聞かれても厳密にはわからない。ただ,私はそう生きたい。そのようにして思考体系や思想などを作りたいなと素朴に思うだけである。これは確かめられることの確かさ,安心感からなのかもしれない。

 やはり,こういったものを認めないと先に進めない。これは思考を使って「人生の意味」の問いに答えるための要請であり,必要条件である。主観世界を採ることによって,思考は意識すなわち主観世界という経験に基礎づけられることになる。

 

 次に,理由②について詳しく述べる。究極的には,科学を用いて「脳モデル」で思考や哲学を説明でき,それを応用すれば人工知能などの分野において,主観的に行なうよりさらに効率よく,短時間で簡単に思考や哲学ができるかもしれない。ただ,やはり今の私にはそのやり方がわからない。そんな不慣れで不確かなものでやるよりは,今までやってきた主観的で原始的なやり方でよいので,思考を地道に進めていきたいと思うだけである。それならばやり方もある程度は知っており,現時点ではより容易であるように感じられる。

 以上が,私が思考用の世界として主観世界を選ぶ理由であるが,一般に科学は客観世界,思考は主観世界を採るのが極めて自然なことだろう。その上で,「科学+客観世界」と「思考+主観世界」のうち,「人生の意味」の問いをよりうまく解けそうな組を選ぶのが,まず一般的な進め方であったようにも思われる。その際に世界はそれぞれ対応させておいた方法に付随してくるということになる。そしてやはり,前章で述べた通り,「人生の意味」を扱えそうであり,自分の納得するまで考えられそうな思考を,「人生の意味」の問いに答える方法として選びたい。すなわち「思考+主観世界」の組を選びたいと私は思う。

 

 少なくとも,今こうして「世界の設定」について思案している私には,私の意識があるように思われる。私がすでに主観的であるから,意識をもっているから,意識を軸に考えていくのが自然であり,妥当であるように思われる。また,意識とは独立に物が存在するということよりも,心(意識)が存在するということの方が私にとっては確からしい。これはおそらく,このような意識をもった主観的経験があるからなのだろう。

 私には現に今,意識があり,主観的に認識している。この状況を素直に受け入れ,この状況の上で思考を行なおうとするだけである。特に科学のような新しい世界を想定して,そこで成立する理論を作ろうとするのではなく,あくまで今現われている世界(主観世界)に成立する理論を作ろうとしているのである。

 ふと,目の前を見ると,デスクの上に置かれたコーヒーカップがある。そんなありふれた,当たり前の事実がある。この素朴な体験を素直にすくい取りたいなと思う。目の前にあるコーヒーカップ。両手で触ってみてもやはりそこに感じられる。目線を変えてみても,確かにそこにあるように見える。錯覚や幻覚かもしれない。すなわち,私が見ているもの,触っているもの,そして感じられるものすべてが私を欺くように作られたもので,本当はそれとは別の世界があると言われるかもしれない。もし仮にそうだとしても,やはりこの私が感じているものは,欺かれようが錯覚だろうが幻覚だろうが,感じられてある。

 

 以上の議論から,私は主観世界を採用し,思考体系作りと思考を行なうことにする。

 ここまでは思考を行なうための世界を考えてきたが,では思考体系作りのための世界はどうだろうか。思考体系作りでは私の知識と私の価値観を用いることになっていたので,思考体系作りは私の意識すなわち主観世界で行なわれるものだろう。また,すでに主観世界で思考体系作りをしていたため,思考体系作りの世界としても主観世界を採用することにする。

 

生き方
 私は,思考体系作り・思考のための世界をこの主観世界とする。

 

存在の整理

 感じられる世界は確かに感じられてある。この事実だけは揺るがないものであるように私には思われる。もちろん,そう思わない人もいるかもしれない。それはそれで構わない。これも1つの生き方なのだろう。私は,少なくともこの主観世界だけは「ある」と言いたい。これ以上存在が確かなものや存在を確かめられるものがなく,存在が言えないかぎり何もできなくなってしまうため,この主観世界は「ある」こととしておきたい。

 ただ,これを「存在している」と言ってしまうと,後に都合が悪くなることがわかっているので,「存在」という言葉は後のために残しておき,ここではこの主観世界に対しては「現われている」という表現を用いてそれが「ある」ということを示したい。 

 

定義
 この主観世界は現われている。

 

 後の章でも詳しく述べるが,そもそも主観世界は存在(部分存在)ではないとしたい。存在は内容物であると考えているが,そもそも主観世界は内容物ではなく,枠組みである。やはり枠組みである主観世界はそもそも存在にならず(外からの対象化ができず),それを支えるものがどうとか,外部にあるものとの関係などについて語ることができない。ただ,我々は主観世界を通常の対象(外から対象化された部分存在)のようにして語りたくなるため,擬似的に対象化したつもりになっているのだろう。だが,それは本質的に通常の対象と異なるもので,通常の対象と区別しなければならないように思われるので,私はそれを「存在している」とは言わず,「現われている」と表現したい。

 実は,そう考えると主観世界にまつわる哲学的な問題というのはほとんど解決するように思われる。例えば,主観世界を支える何かが見つからないこと。これについては,そもそも主観世界は外からの対象化ができないため,外部にあるようなそれを支える何かとの関係を語ることもできないからということになる。

 存在とはあくまで枠組みの中にある内容物のこととする。内容物のみが存在であり,枠組みは存在とは呼ばないことにする。よって,主観世界は枠組みであるから存在として扱わないことにする。

 

表3.2[→] 主観的世界観の構成

世界観

枠組み=世界存在

内容物=存在

主観的世界観

主観世界

心物(部分存在)

 

 このようなことから,改めて「ある」という言葉を整理しておきたい。「ある」には「現われている」と「存在している」が含まれ,これらの存在のあり方は次元が違うため,本質的に異なるとしたい。「現われている」という表現はこの主観世界にのみ使用する。「存在している」はそれ以外に存在を言う場合に用いることにする。存在については後の章で詳しく述べる。 

 

\begin{equation*} \text{ある} \begin{cases} \text{現われている(この主観世界が)} \\[5px] \text{存在している(その他の存在が)} \end{cases} \end{equation*}

図3.4 「ある」の分類

私の個人的意見

 最後に,本論文の本筋ではないが,本章にまつわることで私が長年感じていることを述べておきたい。一般に,現代では客観的世界観が支配的になっているように思われる。確かに,科学が人類にとって極めて有益な成果を収めてきたという歴史はある。それによって,科学に対する絶大なる信頼が築かれたことはよく理解できる。しかし,現代人の多くが客観的世界観に寄りかかりすぎてはいないだろうか。科学的世界が正しい唯一の本当の世界だと妄信的に思い込む,もしくは学校などでそう教えられてきてはいないだろうか。

 私もかつては,科学が説明する世界だけが本当の世界なのだと思っていたことがあった。それが当たり前すぎて疑うことさえしなかった。かつて学校の授業で,それが当たり前の事実のごとく教えられた。まるで,それ以外の世界など存在しないかのように。

 しかし,私たちはもともと別の世界をもっているはずである。それは主観世界である。我々はこのような主観世界の中で生きているはずだが,多くの人が科学的に世界を捉えることを教え込まれてから,その認識が次第に薄れていってしまったように思われる。

 あくまで,これは私の個人的な見方であるが,多くの人は主観世界の存在を忘れすぎではないだろうか。もちろん,彼らに意識がないとまでは言わない。しかし,意識があることがあまりにも当たり前になりすぎて,それが常に背景のようになってはいないだろうか。

 確かに,日常生活の大部分では客観的世界観の方が都合がよいかもしれない。だから,物事をうまく理解できるようなら科学的に捉えてもよいのかもしれない。しかし,すべてのことがそれで説明できるわけでないということを忘れずにいたい。科学的に考えてもうまくいかないようならば,時には別の世界の見方を採用してみるといった柔軟さも必要ではないかと思う。そして,客観的世界観ばかりに寄りかかることで忘れそうになるこの主観世界をより一層噛みしめて,ありがたく思う日々があってもよいのではないだろうか。

脚注

  1. これは後の章の部分存在に相当する。
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