2. 計画

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 「人生の意味」の問いに答えるにあたって,ここで大まかな計画を立てておきたい。実際に答え始める前に,どういった方法で,どのように答えていくかという方針を示しておく。

用いる方法

 まず,どのような方法を用いてこの問いに答えるかを考える。「人生の意味」の問いに答えるとしても様々な方法がありそうである。宗教・科学・哲学あたりがすぐに思いつく。ここでは簡単に,これら3つのそれぞれがどういった特徴をもっているかを見ながら,何を使って回答していくのが最善かを考えたい。

 最初に,宗教はどうだろう。宗教に対して我々が取れる姿勢は基本的に,その教義を信じるか信じないかだけである。少なくとも私が信じられる既存の宗教というものは今のところはまったくない。それならば,自分が信じられるものを作ればよいかもしれないが,自分が無根拠に信じ抜けるものが今のところは思いつく気がしない。また,そういったものの作り方なるものがまったくわからない。おそらく,どうも,ただ信じるだけというやり方が納得できないのだろう。だから宗教は現時点では最善の方法ではないように思われる。

 次に,科学はどうか。科学では,物の世界を観察し,何らかの法則性を見出し,仮説としての法則をテストすることによって,物の世界をうまく説明できる法則を作る。しかし,これでは「人生の意味」を扱えないように感じられる。なぜなら,科学というのは物が法則に従って運動するというような無機質な世界の説明であり,そこに「意味」を含まないように思われるからである。物の動きなどに対して,意味があるとかないとか言うことは一般にしないだろう。よって,科学も最善の方法とは言いがたい。

 最後に,哲学はどうだろうか。哲学では,いや,厳密には「哲学を含む思考」1では ,基本的に納得するかどうかで議論が進むように思われる。すなわち,自分が納得するまでとことん疑い考えられるということである。また,哲学を含む思考によってある種の思考問題を解くことができるようである。これならば,扱える範囲が広そうであり,「人生の意味」という話題も扱えるように思われる。

 

 そこで,今回は「哲学を含む思考」を方法として用いて,「人生の意味」の問いに答えようと試みることにする。

 ただ,もしかすると自分が知らないだけで,これら3つの方法以外で哲学を含む思考よりも「人生の意味」の問いにうまく答えられる学問などがあるかもしれない。その可能性は否めないが,現時点で,私のもっている知識を元に考えると,この問いに対しては直感的に,哲学を含む思考が最善な方法であるように思われる。まず,そういった哲学を含む思考への漠然とした信頼・期待というものがある。

 そのため,ひとまず哲学を含む思考でやってみようと思う。もし,それでうまくいかなかったら,また改めて考え直せばよい。何度でもうまくいくまでやり直せばよいだろう。

 

 また,今現在,宗教・科学・哲学に対してはざっくりと,このイメージ図(図2.1)のような印象を抱いている。

 

 図2.1 宗教・科学・哲学に対する私のイメージ

 

 科学すなわち学問というのは何らかの土台・基礎を必要とする。もちろん,常識がそれを担っているところもあるが,哲学が常識を疑い,学問の土台を改変してきたこともあるように思われる。したがって,哲学というのは科学よりもさらに基礎的な位置を占めている。また,宗教というのはある意味,基礎や土台というものを欠いており,宙に浮いた非常に不安定な存在という感覚が私にはある。それは,結局のところ宗教の根拠となるのは信仰心すなわち信じる心であるということからであるのだろう。私には今のところ信仰心がないため,このような印象になっている。強固な信仰心をもっている信者などにとっては「地」にしっかりと宗教が着いているのかもしれない。

哲学を含む思考の用い方

 つづいて,どのように哲学を含む思考を使って,「人生の意味」の問いに答えていくかを考える。いきなり「人生の意味」について考えていくということもできるが,それでは出した答えに説得力があまり感じられないように思われる。なぜか。それは哲学を含む思考に用いられる道具をきちんと準備していないからである。

 哲学を含む思考というのは,私の知るかぎり非常に厄介な知的活動で,その背景にある前提や基礎が自明ではない。これらをあやふやにしたまま表面的に議論が進められているように思われることも少なくない。ところが,そうなれば議論は単なる水掛け論になってしまう。これを避けるために,厳密に哲学を含む思考をやっていく際には,その背後にある前提や基礎をできるかぎり明らかにし,すなわち言語化し,結論が得られる過程をなるべく可視化することが重要ではないかと私は考えている。

 もちろん,基礎的な前提自体が人それぞれで,相対的なものであることは仕方のないことなのだろう。しかし,だからと言って,それを曖昧にしたまま表面的に批難し合うのは不毛に思われる。議論を支える基礎的な前提を提示し,意見の不一致がその前提の相違を由来とするものであるならば,少なくともそのような不毛な水掛け論にはならないのではないだろうか。したがって,哲学を含む思考を始める前に,自らの基礎的な前提を明示的に表現しておくことが重要である。その基礎的な前提は,その人が依拠する「思考体系」と呼んでもよいだろう。そして,私はこの論文において,その一例となるような私の思考体系を提示することを試みたい。

 これは,読者のためでもあり,自分のためでもある。こうすることで,哲学を含む思考の問題を非常にクリアに見ることができ,すっきりした思考を展開できる。よって,哲学を含む思考の活動は捗り,また読者にとっても読みやすいものになると期待される。

 したがって,今回は哲学を含む思考の土台となるような前提や基礎としての「思考体系」を作るところから始め,その体系を元に,哲学を含む思考をしながら「人生の意味」の問いに答えたい。 



生き方
 私は,思考体系を用いた哲学を含む思考により「人生の意味」の問いに答える。

 

 これは私の生き方であると言えるだろう。なお今後,このように生き方を1つ設定することを「生き方の設定」と呼ぼう。

思考について

 また,思考の前提となるものは「思考体系」であるが,哲学の前提となるものを「哲学体系」と呼ぶことにしよう。哲学は思考の形式の1つであると思われるため,哲学体系は思考体系に含まれていると考えられる。

 そして,思考には哲学の他に「推論」も含まれていると思われる。推論は,思考の形式の1つであり,前提となる命題から結論となる別の新しい命題を導くことである。「推理」と呼ばれることもある。例えば,「ポチは犬である。」と「犬は動物である。」という前提から,「ポチは動物である。」という結論を導くことは推論である。このように推論は基本的に,前提となる命題が1つ以上は必要になる。

 思考については「思考と哲学」の章にて詳しく考察するが,ひとまずは,思考は哲学と推論から成るとして話を進めることにする。すなわち,このような構造になっている。

 

\begin{equation*} \text{思考} \begin{cases} \text{哲学} \\[5px] \text{推論} \end{cases} \end{equation*}

図2.2 思考の構造(暫定)

 

 このように考えると,推論も思考の1つであるから,推論の依拠する体系のようなものも考えることができる。そこで,これを「推論体系」と呼び,これも扱っていくことにしよう。また,推論も思考に含まれるから,推論体系も思考体系に含まれると言える。すなわち,思考体系についてはこのような構造になっている。

 

\begin{equation*} \text{思考体系(作り)} \begin{cases} \text{哲学体系(作り)} \\[5px] \text{推論体系(作り)} \end{cases} \end{equation*}

図2.3 思考体系(作り)の構造(暫定)

 

 なお,思考体系を作ることを「思考体系作り」と呼ぼう。「哲学体系作り」「推論体系作り」についても同様である。

 また,思考体系は何を思考するかによって,その範囲(内容量)が変わると思われる。推論体系も同様であると思われる。そして,思考体系・哲学体系・推論体系の範囲は主観的なものであり,絶対的・客観的なものではないのだろう。

 思考体系に含まれる前提は,おそらく実際には無数にあるだろうが,本論文ではそのうちの少しでも多くのものを言語化できればよいと考えている。また,これ以降は「哲学を含む思考」のことを単に「思考」と表現することもある。哲学は1つの思考の形式であることから,このように表現しても問題はないと思われる。

思考体系の作り方

 早速,思考体系作りを進めていきたいところであるが,その前にもう何点か確認しておくべきことがある。それは,どういった思考体系をどのように作り上げるべきかということである。すなわち,思考体系とその作り方についても吟味を加え,そこにも大まかな方針を立てておきたい。

 まず,何をするにも「世界」というものが必要になる。思考であれ,科学であれ,宗教であれ,それが機能するための「場所」が必要になる。いったいどういう世界の中で,存在を考え,何かを説明したり,解明したりするのか。何かを語る際には,そういう世界が意識的であれ,無意識的であれ必ず想定されている。世界のないところに,何かが存在したり,何かが起こったりすることは基本的に考えられない。存在やできごとを支えるために世界というものが必要なのである。そこで次章にて,思考体系を作る前に,「世界」について吟味し,思考をするのに適した世界の設定を行ないたい。

思考体系作りは私ひとりで進めてよいか?

 つづいて,この思考体系作りは私ひとりで進めてよいかということを考える。もちろん,学問として共有するのなら,誰もが納得できるようなやり方で進めていかなければならないだろう。しかし,今回は少々目指すところが違う。

 今回は少なくとも,「人生の意味」の問いに対する私自身の答えが見つかれば十分である。私が疑問に思って始めたことであるから,他の人が何と言おうが,第一段階としては私が納得のいくように進めていけばそれでよい。

 当初はこのように考えて進めてきたが,本論文を公開する運びとなったため,少しこれについて追記しておく。本論文は前述のように私の納得のいくように書いたものではある。もちろん,この内容に納得できない人もいるだろう。しかし逆に,私と同じようにこの内容に納得してくれる人もいるかもしれない。私としては本論文が,私と同じように納得する人に直接役に立つか,もしくは,すべての人にとって「人生の意味」や思考体系などについて考えるきっかけとなればこの上ない喜びであると思っている。

 よって,本論文では当初の計画通り,私ひとりで思考をして「人生の意味」の問いに答えようと試みることにする。また,そのために「私の思考体系」を作ることとする。

 

生き方
 私は,思考体系作り・思考を私ひとりで行なう。

 

どのように思考体系を作るか?

 次に,どのようにして,もしくはどのような順序で思考体系を作っていくかということを考える。私はかつて以下のように考えていた。

 例えば,まず最初に「思考」という言葉を定義して,思考の役割を決めるところから始めるということを考える。すると,その定義は正しいものでなくてはならないということから,思考の定義をする前に「真理」をどういうものか決めておかねばならないということになる。ところが,その「真理の定義」なるものは何らかの文よって為されることから,それ以前に文を正当に作れる必要がある。すなわち「文」の定義が必要となる。そして,文を作るには概念や個体といった存在も必要になるため,「存在」も定義しておかなければならないことになる。しかしながら,その「文の定義」や「存在の定義」なるものも真理であるべきということから,「真理の定義」を先にしておかなければならない……ということになり,結局この定義の探求は循環に陥ってしまう。

 すなわち,初めに何を定義しようとしても,真理の定義と存在・文の定義の循環に行き着いてしまうことになる。そしてさらに,真理の定義も真理であるべきだろうし,存在・文の定義も文であるため,存在・文の定義がなければできないということから,これらは自己循環にもなってしまう。

 この問題を図で改めて表すとすれば,このようになる(図2.4)。

 

図2.4 定義の循環の問題

 

 これでは,何を最初に定義しようとしても循環になってしまい,うまく進まない。では,どうすればよいか。

 やはり,このやり方には問題点がある。それは,「定義・真理は正しい前提を必要とする。」という考え方である。なお,ここまでも前提という言葉を特に気にせず用いてきたが,ここからは「前提」とは「文の形をした根拠」という意味でのみ用いることにする。つまり,定義・真理は正しい別の定義や真理を根拠として提示しなければならないという考え方が問題なのである。

 この定義の循環の問題では,思考体系作りも推論と同じようなものと考えたのがよくなかった。確かに,推論は前提を必要とするが,思考体系作りをそれと同じように考える必要はないだろう。

定義は前提不要とする

 もし定義や真理が何らかの正しい前提を必要とするならば,その前提も定義や真理であるだろうから,さらにその前提が必要になる。こうして前提をずっとたどって,さかのぼっていった先に,初めから自己正当化されたような前提(前提の不要な前提)をもっていなければならないことになる。そうでなければ,何も正しいと言えなくなるからである。しかし,そんな自己正当化されたような前提があるとは思えない。すなわち,最初から絶対的真理などを掲げて思考体系を作り始めることはできそうにない。

 なるほどたしかに,推論は前提を必要とする。しかし,このように思考体系内の定義も含めてすべてが正しい前提をもつような体系を作るのは不可能であるように思われる。そこで,思考体系内の定義は前提を必要としないとしよう。つまり,体系内で定められる定義にそれを支える前提を求めないということである。これは思考体系作りを可能にするための要請である。また,思考や哲学が前提を必要とするかについては,思考や哲学についての考察の後で扱うことにする。

 また,定義は前提を必要としないとしたことから,定義を定める作業はどの定義から行なってもよいということにもなるだろう。定義の探究は好きなところから始めることができる。

 

メタ定義
 思考体系内の定義は前提を必要としない。

 

 定義について語る定義を「メタ定義」と呼ぶことにするが,これは便宜的な区別でしかない。メタ定義も定義の一種であり,本質的にはメタ定義と定義に差はないと思われる。

 この新たな方針に従えば,図2.4 の「○○の定義」「真理の定義」「存在の定義」「文の定義」は他の定義などを前提として必要としないということになる。したがって,先ほどの「定義の循環の問題」は解決されたと思われる。

定義と真理

 そして,この定義と真理を明確に区別しておきたいので,以下のように改めて整理しよう。まず,「命題」は真偽が言える文とする。そして,命題の中には真である命題と偽である命題があり,真である命題を「真理」と呼ぶことにする。また,推論で導かれる結論はあくまで命題であり,それが正しい(真である)かどうかは前提の正しさ(真偽性)や推論の正しさ(妥当性)などにより決まるとする。真理を前提とし,妥当な推論によって導かれた結論の命題は必ず真であるとする。この真である結論を「定理」と呼ぶことにしよう。したがって,定理は真理の1つである。

 そして,思考体系内に定められた思考についての前提を「定義」と呼び,これは真理であるとしておく。また,「認識事実」も真理とする。これについては,後の章で詳しく説明する。以上の議論をまとめるとこのようになる。 

 

\begin{equation*} \text{命題(真偽が言える文)} \begin{cases} \text{真理(真である命題)} \begin{cases} \text{定義} \\[5px] \text{定理} \\[5px] \text{認識事実} \end{cases} \\ \text{偽である命題} \end{cases} \end{equation*}

図2.5[→] 命題の構造

 

 これらの例を示しておく。以下の例は思考体系内のものではないが,このようなイメージである。

  定義:二等辺三角形とは2つの辺の長さが等しい三角形のことである。

  定理:2つの内角が等しい三角形は二等辺三角形である。←真

  偽である命題:2つの内角が等しい四角形は二等辺三角形である。←偽

知的活動

 ここまでの議論をまとめよう。「生き方の設定」「思考体系作り」「哲学体系作り」「推論体系作り」「思考」「哲学」「推論」について表によって整理するとこのようになる(表2.1)。ここでは,便宜的にこれら7つをまとめて「知的活動」と呼ぶことにする。

 なお,思考や哲学は現時点ではまだ深く考察しておらず,不明な点もあるが,後の「思考と哲学」の章などにおいて詳しく考察した後に,再びこの表を完成させることにする。それまでは,不明な点は「?」によって示すことにする。

 

表2.1[→] 知的活動の特徴(その1)

 

過程

結果

結果の集合

前提は必要か?

 

生き方の設定

生き方

生き方のすべて

不要

 

思考体系作り

思考に必要な定義

思考体系

不要

 

哲学体系作り

哲学に必要な定義

哲学体系

不要

 

推論体系作り

推論に必要な定義

推論体系

不要

 

思考

真理?

 

哲学

真理?

 

推論

命題(結論)

必要

 

 哲学体系・推論体系は思考体系に含まれるため,思考体系と同じく,そこに含まれる定義は前提を必要としないことになる。また,生き方(の設定)も前提を必要としないことにする。

材料とルール

 次に,定義を作る材料について考えておきたい。まずそもそも,材料なしで定義などを作ることはできるのだろうか。私には,それはできないように思われる。例えば,「真理の定義」を定めようとしたとき,材料なしでは,存在しているものはまだないはずなので,真理の定義を決めるために語ることすらできないということになってしまう。定義など何かを語ったり作ったりする際には,やはりあらかじめ存在などの何らかの材料が必要である。すなわち,思考体系作りには材料が必要である。

 なお,この「材料」は先ほど述べた「前提」とは異なるということを注意しておきたい。先ほどの前提は「文の形をした根拠」であったが,この材料は「(定義や真理などの)素材となるもの」である。この材料は文の形をしていてもしていなくてもよいとする。そして,根拠として示す必要もない。

 さらに,思考体系作りはある種の思考の過程であり,それは何らかのルールに従って為されると思われる。したがって,そのルールも必要になってくる。まとめれば,思考体系作りは何らかの材料・ルールを必要としていると言える。

 

 それでは,思考体系作りの材料・ルールとなるべきものは何なのだろうか。やはり前述のように,思考体系というものは無からは作れないように思われるので,我々が元々もっているものを用いるしかないように思われる。すなわち,思考体系の材料は既存の知識であると言える。また,知識だけでなく,最終的に何を思考体系とするかの選択の基準(ルール)として,ある種の価値観も必要であるように思われる。したがって,思考体系は「既存の知識」(材料)と「自らの価値観」(ルール)で作り出すほかないようである。

 また,細かいニュアンスを考慮すると,思考体系は「作り出す」ものではなく,「語り出す」ものであるとしたい。それは以上のように,思考体系というものは新しくゼロから作り上げるというより,元々我々が無意識的にもっているであろうものを改めて意識的に見つけ出し,言語化するようなものであるということからである。

 以上の議論より,私の知識と私の価値観を用いながら私の思考体系を語り出していくことにする。また,このようなやり方で思考体系作りを行なっていくことはある種の生き方である。

 

生き方
 私は,私の知識と私の価値観を用いて私の思考体系を語り出していく。

 

 ここまで,思考体系作りについてのみ考えてきたが,他の知的活動はどうだろう。おそらく,同様の理由で,他の知的活動も材料とルールが必要になるだろう。

 まず生き方の設定についても,やはり私の知識を材料に,私の価値観をルールに行なうしかないと思われる。次に,哲学体系作り・推論体系作りは,思考体系作りの一部であるため,思考体系作りと同じになるだろう。そして,思考・哲学のルールはもちろん思考体系・哲学体系であるだろう。ただ,思考・哲学の材料は長くなるため後の章で扱う。最後に,推論は前提となる命題を材料とし,推論体系(推論規則/論理)をルールとして行なわれると言えるだろう。

 ここまでの,知的活動についての議論を表に改めてまとめるとこのようになる。

 

表2.2[→] 知的活動の特徴(その2) 

 

過程

結果

結果の集合

前提は必要か?

材料

ルール

 

生き方の設定

生き方

生き方の
すべて

不要

私の知識

私の価値観

 

思考体系作り

思考に必要な定義

思考体系

不要

私の知識

私の価値観

 

哲学体系作り

哲学に必要な定義

哲学体系

不要

私の知識

私の価値観

 

推論体系作り

推論に必要な定義

推論体系

不要

私の知識

私の価値観

 

思考

真理?

思考体系

 

哲学

真理?

哲学体系

 

推論

命題(結論)

必要

命題(前提)

推論体系(論理)

 

 この表の内容を図式化するとこのようになる(図2.6)。おそらく,「真理=私の知識」であるのだろう。

 

図2.6 知的活動などの構造(その1)

 

 最後に,次章以降の計画を大まかにまとめると,「世界の設定→思考体系作り→思考による回答」の順に進めていくことになる。

脚注

  1. 単なる哲学ではなく,「哲学を含む思考」の方が都合がよいことが後で判明したため,「哲学を含む思考」としている。
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