7. 主観

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 前章では,思考(哲学と推論)に必要と思われる「概念」「判断」「主観」「推論」のうちの2番目の「判断」について吟味した。本章では,3番目の「主観」について改めて吟味し,整理する。前述のように,主観と主観世界は同じであるとする。

 

 まず,主観(主観世界)とは何か。まず主観世界は知覚面,記憶面および記憶空間のことであった。そして,私の「哲学」の定義においては,主観(主観世界)とは哲学を遂行する主体(動作主)のことであった。これは,この私の意識と言ってもよい。すなわち,「主観(主観世界)=私の意識」である。この知覚面などの主観世界がなければ,「私の意識がある。」と言うことも主観的にはできなくなってしまう。

 やはり,主観というのは,この私の知覚面などの主観世界のことであり,自我と言うこともできる。そう定義しておきたい。 

 

定義
 主観=主観世界=私の意識=自我
 主観世界が哲学を行なう。

主観世界の同一性

 この知覚面・記憶面(知覚面の流れ)の同一性はどう保たれるのだろうか。意識としての私が,同じ私であり続けていると言いきれるのだろうか。このような疑問は生じるが,知覚面の流れの同一性は個体の同一性の議論のときとほぼ同様に考えておきたい。よって,知覚面の流れの同一性も認めることにする。

 

定義
 知覚面の流れが連続であるように現われているかぎり,その流れは同一のものであるとする。

 

図7.1 知覚面から記憶面へと面が流れていく様子

 

 では,不連続な知覚面となったときはどうするか。やはりこのときも,ひとまずは新しい別の主観として捉えられると思われる。記憶空間にある記憶面や概念などを参照し,今の知覚面と照合することで,過去の主観と同一であるかを判断する。同一と判断されれば,知覚面の不連続性の説明をその後に探していくことになるだろう。例えば,それは失神や睡眠などとして説明されるわけである。

 

 主観世界というのは存在を支える場であり,それ自体は現われていると言えるのみであった。「主観世界が現われていない。」ということは決して言えない。これはちょうど,私は私がいなくなったことすなわち「私の死」(意識の消失)を経験できないことと対応する。「私」はただ経験を可能にする基礎的な土台でしかない。それは単に現われているものであり,存在するものではない。したがって,「私」の消滅としての「私の死」という言葉には本当は意味がない。

 ただ,私には私が主観的に生きてるように思われる。そして同時に,主観世界が現われているようにも思われる。そこで,「私が生きている。」という表現は「主観世界が現われている。」という表現の言い換えであるとしておきたい。

哲学の定義について

 ここまで,哲学に必要であると思われた概念・判断・主観を改めて吟味してきた。その結果を踏まえても,やはり哲学の定義はこれで問題なかったと思われる。

 

定義
 哲学とは,概念の判断を主観が行なう過程である。

 

 この主観による概念の判断は,直観を用いて行なわれる。具体的には,哲学とは「○○(概念)とは何か?」で始まり,「○○(概念)とは~である。」で終わる思考の過程である。このようなものであった。概念・判断・主観を整理した今でも,この定義は有効であると思われる。

 ここからは,もう少し踏み込んで,意識レベルでの哲学を考えておきたい。では,概念の判断を主観が行なうとは意識作用としてはどのようなものになるのだろうか。それについて考えていくことにする。

意識レベルでの哲学

 判断結果<SはPである>には言語表現である命題「SはPである。」が対応しているが,判断の過程は厳密には意識作用であると思われる。となると,哲学は本質的に,言語を含まない意識作用のみで行なわれていることになる。つまり,哲学文の主語になるのは単語であるが,哲学の真の対象はその単語の心的イメージである概念である。

 そこで,ここまでは言語レベルでの哲学を考えてきたが,ここからは意識レベルでの哲学を整理していくことにする。

 まず,「○○とは何か?」で,哲学は答えに何を求めているのかを考えよう。この哲学文の答え方は「S(主語)はP(述語)である。」となるが,そのパターンには2つの可能性がある。

 

   (1)S⊂P(例:「犬は動物である。」)

   (2)S=P(例:「正三角形はすべての辺の長さが同じ三角形と同じである。」)

 

これらのうち,どちらを哲学文では答えに求めているのだろう。

 例えば,「哲学とは何か?」「愛とは何か?」「犬とは何か?」に対して,「哲学とは考えることである。」「愛とは気持ちである。」「犬とは動物である。」と答えたとしよう。これは(1)S⊂P であるが,これで納得できるだろうか? 哲学としては不十分であり,これでは答えとして納得できないと思われる。哲学であればもう少し踏み込んで考えていきたいところである。

 やはり哲学としては(2)S=P の答えを求めているのではないだろうか? それが,主観的に判断され,その人にとって「S=P」となるまで「Sとは何か?」について考えていくのが哲学なのだろう。では,それを意識レベルで考えるとはどうすることなのだろうか?

 

 例えば,「犬とは何か?」と問い哲学を始めたとしよう。言語レベルでは,「犬とは,しっぽをもち,4本足で,…,ワンと吠える,動物である。」と答えたとしよう。このとき,意識レベルではこのようになっていると思われる。まず,<犬>の概念すなわち心的イメージを思い浮かべる。これは一挙に把握される。次に,その心的イメージがもっている性質を意識の中で1つ1つ抽出していく。<しっぽをもつ><4本足である>…<ワンと鳴く><動物である>などである。これらは段階的に1つ1つ把握される。すべての性質を抽出できれば,哲学は完了となる。このようにして,意識レベルで哲学が為されているのだろう。あくまでイメージであるが,図にその様子を示す。

 

図7.2 意識レベルでの哲学のイメージ

 

※これはあくまでイメージである。実際は絵のようなはっきりした像ではない。

 

 つまり,意識レベルの哲学とは,一挙に把握している概念(=心的イメージ)のもつ性質を改めて分析し,1つ1つ段階的に把握し直すことであると言える。これが意識作用として言語を用いずに行なわれる。すなわち,「哲学=心的イメージの分析」であるとも言える。

 

 よって,まとめれば哲学は,まず言語レベルでは「S(○○)とは何か?」と問うて,「S=Pである。」(「SはPと同じである。」)と終わるような思考過程であると言える。これは判断の過程とも言える。

 また,哲学は,意識レベルでは,一挙に把握された概念/心的イメージのすべての性質を1つ1つ改めて分析し,意識的に確認することであると言える。

 

 前述のように,S(哲学文の主語)となることができるのは,すべての単語である。また,すべての単語の心的イメージは概念である。

 このように哲学それ自体は言語なしで実行されるものであるが,一般に,言語なしで哲学することは極めて難しいように思われる。よって,何か問題が生じるまでは,私は言語を用いて哲学をしていくことにする。言語を用いると言っても,あくまで補助的に使用するだけであり,本質的には意識レベルでの哲学が行なわれているわけである。

 逆に,当たり前かもしれないが,言語以外の意識や心的イメージ/概念がなければ,哲学はできないと思われる。

 

 また,概念(単語)の定義にも,絶対的・客観的な真理,正しさはない(認識できない)と思われる。そうなると,「正しい意味」としては主観的なものを用いるしかない。そして,それでよいのだと思う。哲学のゴールもそこなのだろう。「○○とは何か?」と問い始めて,自分なりに納得のいく「○○」の定義に辿りつけば,それで終わりでよいのである。

 また,そういった主観的な意味の正しさは経験によって変わるだろう。他者とは経験が違うので,正しいとする意味も異なりうる。そして,自分自身とでさえ,時間が経てば経験が増え,過去の一部のことを忘れ,今までの意味ではうまく説明・対応できなくなることもあるだろう。そうなったら,そのときにまた改めて,その単語の意味を吟味(哲学)すればよいだろう。

 

 ここで,「概念空間」という道具を導入しておきたい。概念空間とは,概念の元になる様々な性質の組(個体の情報のようなもの)を配置した空間である。

 単語の意味(概念)はほとんどの場合,我々がすでに知っている概念空間の一部を新しく切り出すようなものである。

 

図7.3 概念空間が切り出されるイメージ

 

 このように言語で概念空間を切り出す。

 哲学は先祖が設定した(自覚的に設定していない場合が多いか)この切り出し方を発掘する行為なのかもしれない。言語(単語)の使い方のルールブック作りとも言える。

 

図7.4 概念空間から概念が切り出されるイメージ

 

 「ポチ」「愛」はある概念空間につけられた名前であり,それにより概念空間が切り出されている。この切り出された概念空間を探し出すことが哲学なのだろう。

 また,もちろん概念の把握はすべてが哲学と呼べるわけではないだろう。例えば,無意識的に一挙に<犬>の概念(心的イメージ)を把握していた(「犬」の意味を理解している)としてもそれで「哲学をした」とは言えないだろう。なぜなら,そもそもこれは判断ではないからである。これは他の動物もやっているのだろう。哲学というのは,意識レベルでは,改めて概念の性質を1つ1つ把握することであり,これは自覚的・意識的な判断であるとも言えるだろう。

 また,自然的に,似たもの同士から「犬」という概念を作るとき,

  • 動物である
  • しっぽがある
  • ワンと吠える

をまとめて「犬」としようとはならないだろう。似ているものから,漠然と「犬」の心的イメージが先にできる。それを分析していくと,

  • 動物である
  • しっぽがある
  • ワンと吠える

が出てくる(哲学)のだろう。

 

 犬のような概念は自然に習得されるのだろうが,一般に哲学の対象となるような抽象的,心的な概念の多くは自然に習得されるというよりは,先人たちが作った単語から習得していくのだろう。

つまり,

  • 概念→単語  (自然的)
  • 単語→概念  (人工的/文化的)

の順で学ぶ概念/単語があると思われる。

 

 本章まで,哲学に直接必要な「概念」「判断」「主観」について吟味してきた。次は思考に必要な「推論」を考察する。

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