15. 回答

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「人生の意味」の問い

 前章までの準備を踏まえ,最後に「人生の意味」の問いに答えてみたい。まずは,「人生の意味」の問いを分析しよう。冒頭で挙げた問いには

 

   (1-1)「人生の意味とは何か?」

   (1-2)「なぜ生きているのか?」

 

という2種類があった1。まずは,それぞれの問いは何を問うているのかについて検討してみたい。

 

 まず,(1-2)の「生きている」という述語(述部)の主語は何か。生物全般か,動物か,脳をもった生き物か,人間か,それとも私なのか。もちろん,(1-1)においては「人生」とあり,それは「人が生きること」にほかならない。ここでは(1-2)が問題である。

 そこで,「生きている」という述語(述部)の意味を2つに分けたい。広い意味での「生きている」を「生命活動をしている」とし,狭い意味での「生きている」を「意識がある」としたい。意識があるとはすなわち主観世界が現われているということにほかならない。生物と非生物の線引きをするのは簡単ではないが,生命活動をしているというのは,ここでは物理現象に還元できるような物質的なものとしておく。(1-2)の「なぜ生きているのか?」という問いでは,物理現象に還元された生命活動について問うているのではないと思われる2。おそらく,ここではなぜ意識をもったものがいるのかということが問われているのだろう。そのように考えると,「生きている」というのはここでは「意識がある」という狭い意味で用いられている。

 では,どこまでが意識をもったものと言えるのだろうか。主観世界が現われていることとしてであれば,私は意識をもっている。これは疑いえない。では,他者はどうか。私には他者の意識が主観世界として現われてこない。しかし,そもそもこれは,構造的に不可能である。仮に,私のもとに主観世界が現われてきてしまえば,それは私の主観世界すなわち私の意識ということになってしまう。現われとしての主観世界や意識は,2つ以上の認識主体を考えることができず,またその唯一のものは私のものと言わざるをえない。したがって,他者の意識は私には現われず,すなわち存在しない。よって,ここでは「生きている」の主語は私である。

 ここまで,(1-2)の「生きている」について考察してきたが,(1-1)の「人生」にも同じようなことが言えるだろう。つまり,「人生」には広い意味の「人の生命活動」と狭い意味の「人の意識」という2つの意味があると考えられる。そして,やはりここでは,物理現象に還元されるような「人の生命活動」のことを言っているのではないように思われる3。単なる物質的なふるまいに対して「意味」や「なぜ」ということを問うたりはしないだろう。よって,ここでは「人生」は「人の意識」と考える。さらに同様に,他者の意識は現われず,存在しないことから,この「人の意識」はほかならぬ「私の意識」すなわち「この主観世界」のことである。つまり,(1-1)の「人生」は「私の人生」のことと言える。

 したがって,「人生の意味は何か?」という問いは「私の人生の意味は何か?」という問いの省略形であり,「なぜ生きているのか?」という問いは「なぜ私は生きているのか?」という問いの省略形であったと思われる。

 以上をまとめると,私が答えるべき問いはこのようになった。

 

   (2-1)「私の人生の意味は何か?」

   (2-2)「なぜ私は生きているのか?」

 

 さらに,(2-1)の「私の人生」を「この主観世界」と考え,(2-2)の「私は生きている」を「この主観世界は現われている」と考えると,このように書きかえることができる4

 

   (3-1)「この主観世界の意味は何か?」

   (3-2)「なぜこの主観世界は現われているのか?」

 

 この先ではこの2つの問いに答えることにするが,ここでもう少し,「人生」について整理しておきたい。

人生

 以上の議論で,「人生」は「この主観世界」であるということになった。よって,「人生」は基本的に「主観世界」の性質を受け継ぐことになる。したがって,「人生」も中からの対象化はできるとしたい。

 知覚面は輪郭をもたない。記憶面も記憶空間も輪郭をもたない。よって,人生も輪郭をもたない。すなわち厳密には生きていること,人生というものも個体のようには分節化(外からの対象化)できない。よって,個体のようにははっきりした存在ではない。しかし,それでも「人生」について考えたり,語ることを放棄したくはないので,前の章で扱った主観世界の中からの対象化と同様に,「人生」についても中からの対象化はできるとする。

 

定義
 人生=この主観世界

 

 知覚面というものは厄介で,それ自体は何かが存在するための土台であるにもかかわらず,混沌とした情報全体として,そこにあるように思われるものでもある。知覚面は輪郭をもたないが,それ自体が経験できることのすべてであるため,経験によってその有を確かめられる。しかし,「ある」ということはわかるが,決して「ない」ということは経験できない。これは,経験の構造の限界である。

 このように「人生」や「生きていること」を定義すると,「私の死」というのはおそらくこの経験自体の消失,すなわちこの主観世界の消失という状態であると思われるが,経験の構造上そのようなものは確かめられない。経験できないことになる。ゆえに「私の死」の存在はこの主観世界内で認められない。

「私が生まれた」とはどういうことか。

 ところで,「なぜ私は生きているのか?」という問いについては「生きている」ということだけが問題となっているが,「私の人生に意味はあるか?」と問うときに問題となるのは「生きている」ということに加え,さらに「生まれた」ということも含まれるように思われる。それに伴って,「なぜ私は生まれたのか?」という問いも同種の問いであるように感じられる。では,我々は「生きている」ということに加えて,「生まれた」ということについても検討していく必要があるのだろうか。おそらく,そうはならないだろう。なぜなら,そもそもかろうじて「生きている」ということが語れたとしても,「生まれた」ということは決して語ることができないからである。

 どうして「生まれた」ということが語れないのだろうか。補足しておくが,これは「他者が生まれた」ではなく,「私が生まれた」ということである。そもそも「私」というのはこの主観世界のことであった。そして「私が生きている」というのはこの主観世界が現われているということであった。そのように考えると,「私が生まれた」というのはこの主観世界が現われ始めたということになる。この主観世界が現われ始めたということは,この主観世界が現われていない状態からこの主観世界が現われている状態に移行したということである。しかし,私はその移行を決して経験することができない。なぜなら,この主観世界が現われていなければ,経験すること自体が成立しないためである。

 主観世界とは経験一般を成立させるための土台である。その主観世界の生成自体を経験するには新たな土台すなわち「メタ主観世界」なるものが必要になる。それを認めたならば,おそらくそのメタ主観世界なるものが新しく「私」になってしまい,また同様に「私」の誕生については語れなくなってしまうだろう。したがって,経験の土台であるような主観世界それ自体の発生を経験することは構造上できない。経験を超越しているものについては,その存在は語ることができない。概念にもならないし,言語を結びつけることもできない。そもそも「私が生まれた」という表現が何を指し示しているのかがわからないと言ってもよい。言うなれば,この表現は無意味な表現である。このような表現は,言葉ひいては概念の結合を誤ったものである。「私」と「生まれた」はそもそも結合することができないのである。

 よって,我々は「私が生まれた」ということについては語れない5。厳密には「私は生きている」ということさえ語れないのかもしれない。しかし,ここでは「私は生きている」ということは「この主観世界が現われている」ということとして想定しておくことにする。

客観世界での「人生の意味」

 ここで,念のため客観世界の立場から「人生の意味」の問いに回答しておこうと思う。ここでは,客観世界に存在する肉体としての私(伊藤翔太の体)およびその人生を考える。

 そもそもの話になってしまうが,この主観世界がなかったならば,何を「私」と呼ぶことができるのだろうか? 私には物としての体があるようにも思われる。つまり,客観世界では物としての私(伊藤翔太の体)を考えられそうではある。しかし,これはできない。やはり客観世界では「私」と呼べるものがなくなってしまうだろう。客観世界では存在する物はすべて平等・対等な存在であり,そのうちの1つを特別に「私」とすることはできないと思われる。やはり,この主観世界以外には「私」と呼べる特別なものがないのだろう。この主観世界はそれだけで「私性」,特別性をもっているので「私」と呼ぶことができる。

 そう考えると,物の私は存在しないのであるから,物としての私の人生も考えられず,物としての私の人生の意味も扱うことができなくなってしまう。よって,客観世界では「私の人生の意味」は語ることができない。もちろん,人間一般の人生や生命の命などの意味については語れるだろうが,それは本論文では問題にしていないため扱わないことにする。

 よって,ここからは主観世界での「人生の意味」のみを考えていくことにする。 本題に戻ろう。答えるべき問いはこの2つである。

 

   (3-1)「この主観世界の意味は何か?」

   (3-2)「なぜこの主観世界は現われているのか?」

 

 以下では,まずこれら2つの問いをさらに詳しく分析していくことにする。

(3-1)「この主観世界の意味は何か?」の分析

 「この主観世界の意味は何か?」に答える準備として,「 $x$ の意味は何か?」という問いはどういう問いであるのかを分析しよう。そのために「意味」という語の意味を分析しておきたい。この「意味」には,実に多様な意味が含まれている。ここでは,3つの意味を考えておくことにする。それは,指示対象・価値・目的である。

 

\begin{equation*} \text{意味} \begin{cases} \text{①指示対象(意味内容・表現内容)} \\[5px] \text{②価値} \\[5px] \text{③目的} \end{cases} \end{equation*}

図15.1 「意味」の意味分類

 

 指示対象とはその言葉が指し示している個体や概念などのことである。これは意味内容とも言えるだろう。例えば,「知らない言葉の意味を辞書で調べる。」「赤信号の意味は『止まれ』である。」などと使う場合の用法である。それに加え,「意味」という言葉には価値と目的という意味があるように思われる。少し例を見てみよう。

 「ベジタリアンなので,肉をもらっても意味がない。」「本を買っても読まなければ意味がない。」「ここに来た意味はなかった。」「パソコンは電源が入らなければ意味がない。」「この作業には何の意味があるのだろうか?」「意味な時間だ。」「これは非常に意味のある会議だ。」

 これらの「意味」はどれも「価値」を表しているように思われる。それぞれの文の中の「意味」を「価値」と言い換えても差し支えなさそうである。

 

 また,「食べることの意味はか?」に対しては,「エネルギーを補給するため」「栄養素を摂取するため」などと答えられる。「髪を切る意味はか?」と言われれば,「髪を短くしてすっきりするため」などと答えられる。「この会議の意味はか?」に対しては,「次の新商品を開発するため」などと答えられる。これらの答えはどれも「目的」になっていると言えるだろう。他にも「運動する意味はか?」「病院に行く意味はか?」などと用いることができる。これら「 $x$ の意味はか?」という問いでは,どれも未来的な目的を聞いているように感じられる。これも,「意味」を「目的」に言い換えても問題ないように思われる。

 

 ここまでの話をまとめよう。

まず,

   「 $x$ に意味はあるか?」

   「 $x$ に意味はある。」

   「 $x$ に意味はない。」

と言うときは,「意味=価値」であると思われる。よって,「ある」や「ない」については「意味」は「価値」のことであると言える。

 よって,

   「 $x$ に意味はあるか?」=「 $x$ に価値あるか?」

   「 $x$ に意味はある。」=「 $x$ に価値ある。」

   「 $x$ に意味はない。」=「 $x$ に価値ない。」

である。

 

次に,

   「 $x$ の意味はか?」

と問うときは,「意味=目的」であると思われる。「か?」や「だ」については「意味」は「目的」のことであると言える。

 すなわち,

   「 $x$ の意味はか?」=「 $x$ の目的か?」

である。

 

 すべてに当てはまるとは限らないと思われるが,基本的にはこのようなルールがあるように思われる。このように,「意味」は文脈によっては価値も目的も表す。

 

 では,「この主観世界の意味は何か?」という問いはいったいどういう問いなのだろうか。先ほどの $x$ には「この主観世界」が入っている。では,ここでこの主観世界の何を聞かれているのだろうか。指示対象か,価値か,それとも目的だろうか。「この主観世界」とは,知覚面・記憶面・記憶空間などの主観的な意識体験全体のことである。これが指示対象に相当すると思われる。別に,「この主観世界」という言葉が何を表しているのかさっぱりわからないというわけではない。

 よってここでは,単純に価値か目的が問われているのだろう。となると,先ほどのルールから,「この主観世界の意味はか?」と問われているのだから,「意味=目的」であり,「この主観世界の意味はか?」=「この主観世界の目的か?」であると言える。

 すなわち

 

   (3-1)「この主観世界の意味は何か?」=「この主観世界の目的は何か?」

 

であると言える。

(3-2)「なぜこの主観世界は現われているのか?」の分析

 また,「なぜこの主観世界は現われているのか?」という問いも分析しよう。まず,「なぜ $x$ するのか?」という問いはどういう問いなのだろうか。第一に,それは原因・目的・理由のいずれかを問うているのではないだろうか。例えば,「なぜ私は食べるのか?」が何を問うているのかを考えてみよう。物理学的に考えると,その原因はあくまで物理的な原因であり,さかのぼれば因果連鎖の最初の原因としての宇宙の初期状態ということになる。宇宙の生成以前を考えないのは,物体が存在していることを前提としている物理学では,物体がなぜ,どのようにして生じたのかということを扱うことができないからである。また,私が食べることの目的は,エネルギーや栄養素を補給するためなどと言えるだろう。最後に,私が食べることの理由は,お腹が空いて「食べたい」という欲求を抱いたからである。このように「なぜ $x$ するのか?」という問いは,$x$ の原因・目的・理由(欲求)のいずれかを問うていると思われる。

 では,「なぜこの主観世界は現われているのか?」という問いはこれらの何を問うているのだろうか。直観的に原因ではありえない。主観世界が現われているということの原因として何らかの宇宙の初期状態が与えられたとしても,そういうことを聞いているのではないと思うに違いない。またそもそも,世界の種類が異なるため,主観世界について物理学的な,客観世界的な原因を問うことは無意味である。よって,ここで答えようとしているのは物理学的な原因ではない。

 

 そこで残ったのは目的と理由である。もう少し吟味してみよう。

 まずは目的について検討する。「なぜ $x$ するのか?」という問いは目的については「何の目的のために $x$ するのか?」という意味である。例えば,「なぜ私は食べるのか?」は「何の目的のために私は食べるのか?」ということである。その答えは例えば「エネルギーを補給するため」や「栄養素を摂取するため」などとなるだろう。このときに注意しておきたいことは,これらの目的を達成するために「食べる」ことが必ず役に立つということである。仮に,「エネルギーを補給するため」の手段が「歩く」ことであったならば,「歩く」ことはもちろんエネルギーを消費してしまうから,手段として役に立っていないことになる。つまり逆に,「歩く」の目的としては「エネルギーを補給するため」とは答えられないということである。そうではなく,「食べる」の目的として「エネルギーを補給するため」と答えることはできる。これは実際に,「食べる」という手段が「エネルギーを補給する」という目的達成のために役に立っているから,このように答えられるのである。

 すなわち,「何の目的のために $x$ するのか?」に「 $y$ するため」と答えるためには少なくとも,$y$ する目的のために $x$ することが手段として必ず役に立たなければならない。これはつまり,$x$ することに $y$ するための手段としての価値がなければならないということである。この価値は道具価値・幸福価値・総合価値のいずれにもなりうる。この条件が満たせて初めて,「 $y$ するため」と目的を答えることができる。

 このように,「 $x$ する目的は何か?」に正当に答えるためには最低限,「 $x$ することには価値がある。」と言える必要がある。例えば,「食べる目的は何か?」に答える前に,「食べることには価値があるか?」に対して「食べることには価値がある。」と言えなければならない。

 すなわち,目的を考える際には,その手段となるものの価値をセットで考えておかなければならない。価値がないものに目的を考えても仕方がない。

 

 そのように考えると,「なぜ $x$ するのか?」という問いは目的に関しては,「( $y$ するための手段として) $x$ することに価値はあるか,あるとすればその目的 $y$ は何か?」ということになる。よって,「なぜこの主観世界は現われているのか?」という問いは目的に関しては,「この主観世界が現われていることに価値はあるか?あるとすればその目的は何か?」という問いであると言える。

 これは先ほどの(3-1)「この主観世界の意味は何か?」=「この主観世界の目的は何か?」を含んでいる。よって,

 

   (4-a)「この主観世界が現われていることに価値はあるか? 

       あるとすればその目的は何か?」

 

を考えておけば十分である。

 

 さて,もう一方の「なぜ」,すなわち理由についても検討しておきたい。理由というのはほとんど欲求に還元されるものであるように思われる。しかし,あえて価値という観点から考えてみれば,理由というのは幸福を直接的な目的とした価値(幸福価値・総合価値)を問うていると考えることもできる。

 理由に関しては,「私が食べる理由はあるか?」「私が食べる理由は何か?」「何の理由で私は食べるのか?」という問いの形になると思われる。これに対しては,例えば,お腹が空いて「食べたい」という欲求を抱いたからと答えることができる。このような根拠を「理由」と考えることにする。

 それでは欲求とは何か? 簡単に言えば,「何かをやりたいと思う気持ち」であると思われる。この内実は価値の期待値であると考えている。特に,幸福に直結する価値の期待値や,幸福の期待値とも言える。これが欲求であると思われる。つまり,ある行為に対する欲求が大きいほど,その行為を実行したときに得られる幸福の期待値が大きいと言える。そうならば,欲求や理由は幸福を直接的な目的とした幸福価値や総合価値に関係すると言える。

 

 理由はほとんどの場合,欲求であるように思われるが,そこにも何らかの意味で価値(の期待値)がつけられ,比較もできる。その価値の期待値などによって「やりたい」「やりたくない」という欲求が生じ,それを理由に我々は行動するのだろう。これはちょうど,幸福価値・総合価値に相当する。これらの価値は幸福を目的としている。幸福は目的の連鎖の終わりでもある。すなわち,「理由=幸福価値=幸福」である。

 したがって,「なぜ $x$ するのか?」という問いは,理由という観点から捉えれば,「 $x$ することに幸福価値または総合価値はあるか?」という問いと同一である。よって,「なぜこの主観世界は現われているのか?」という問いは,

 

   (4-b)「この主観世界が現われていることに幸福価値または総合価値はあるか?」

 

という問いであると言える。

 

 よって,以上の「人生の意味」の問いの分析をまとめると,結局「人生の意味」の問いとして,私が答える必要のある問いはこの2つということになる。

 

   (4-a)「この主観世界が現われていることに価値はあるか?

       あるとすればその目的は何か?」(人生の目的)

 

   (4-b)「この主観世界が現われていることに幸福価値または総合価値はあるか?」

       (人生の理由)

 

 また,幸福も一種の目的と捉えることができるので,「人生の意味」の問いは「この主観世界が現われていることに価値はあるか? あるとすればその目的は何か?」にまとめることもできる。すなわち,(4-a)は(4-b)を含んでいるので,(4-a)のみを考えれば十分である。そこで,ここからは(4-a)のみに答えることにする。

 したがって,これら「人生の目的」と「人生の理由」をまとめると,「人生の価値」になるとも言える。すなわち,「人生の意味」の問いは,「人生の価値」の問いであったとも言える。

 

 そこで,この「人生の価値」の問い(4-a)に答えるために,まず改めて,通常の価値の性質を確認しておきたい。表のようになると思われる。

 

表15.1 通常の価値の内訳

価値

主体
(誰にとっての)

価値対象=手段
(何の)

目的
(何のための)

道具価値

この主観世界

動作概念・動作

動作概念

幸福価値

この主観世界

動作概念・動作

幸福

総合価値

この主観世界

部分存在(体存在・心存在)の一部

幸福

 

(全体場)

(部分存在)

(部分存在)

(※理由=幸福価値=幸福)

 

 通常の価値の主体は常にこの主観世界であり,全体場である。他方,価値対象と目的は部分存在である。また,価値対象と目的は,主体という全体場の中の部分存在になっている。私(この主観世界)は価値対象や目的を認識する主体でもある。

 手段は価値があるから選ばれる。「紙を切る」ために「はさみを使う」ことは手段としての道具価値があるので,「はさみを使う」という動作(概念)が「紙を切る」ための手段として選ばれ実行される。このように我々は手段を選ぶために価値をつけているとも言える。したがって,価値と選択はセットで考えるべき概念である。価値が成立するためには,選択するということが成立している必要がある。よって,価値対象は,選択の主体を全体場とした部分存在でなければならないとも言える。価値の主体は選択の主体でもある。

 ここで,この通常の価値の構造を図に示す。

 

図15.2 通常の価値の構造のイメージ

 

 では,「この主観世界」の価値を考えよう。まず,この主観世界の総合価値を考える。この主観世界は個別的なものであると思われるので,この主観世界の総合価値は体存在(「このもも」「このはさみ」など)と同様に,この主観世界の個別価値に分解することができるだろう。すなわち,「この主観世界」の道具価値と幸福価値である。このとき,価値対象はどうなるか? 価値主体をこの主観世界とすれば,価値主体のこの主観世界と価値対象のこの主観世界の関わりを考えることになり,この時点ですでに意味不明ではあるが,「この主観世界が現われていること」が価値対象となると言えるだろう。というより,これしか言えないと思われる。

 次に,答えたい「人生の価値」の場合を表に同様にまとめる。

 

表15.2 この主観世界の価値の内訳

価値

主体

価値対象=手段

目的

道具価値?

この主観世界?

この主観世界が現われていること

(動作概念の)目的?

幸福価値?

この主観世界?

この主観世界が現われていること

幸福?

 

(全体場)

(部分存在?)

(部分存在)

 

 価値の主体はまだ不明であるが,通常の価値と同じくこの主観世界を軸に考えていく。目的についても同様である。

「人生の意味」の問いへの回答

 それでは,ここから,実際に「人生の意味」の問いに回答することを試みる。

 

【価値①】

 通常の価値は,価値対象も目的も部分存在であり,主体は全体場である。これにならって,価値対象を「この主観世界が現われていること」にしたとしよう。前述のように,この主観世界はあくまで注目対象にはなるとする。このとき,この主観世界を価値対象にするためには,この主観世界を部分存在にする必要があることになる。しかし,この主観世界を全体場の主体としているため,私には当然それはできない。よって,仮にこの主観世界を内包するような別の何かを仮定する。これを「メタ主観世界」と呼ぼう。仮に,メタ主観世界によってこの主観世界が部分存在にできたとしよう。そして,この主観世界と並列的に存在する別の部分存在も確保でき,その中の1つをこの価値における目的にできたとしよう。これを「メタ目的」と呼ぼう。そして,このときの価値を「価値①」と呼ぼう。

 

表15.3 価値①の場合

 

主体

価値対象=手段

目的

価値①

(メタ主観世界)

この主観世界が現われていること

(メタ目的)

 

図15.3 価値①のイメージ

 

 仮に,これが成立したならば,この主観世界の価値について語れることになるだろう。しかし,当然これは成立しない。そもそも,メタ主観世界とは何か。メタ目的とは何か。私にはそんなものは感じることも,知ることもできない。知覚・感覚できない。それを存在や場として確かめられない。これは,構造的に経験できないものなのだ。

 私はこの主観世界の外側を経験することができない。私に経験できないことを考えることも,探究することもできない。我々の経験はこの主観世界だけでしかなく,この主観世界とは別に外部に存在するようなメタ主観世界やメタ目的を経験できない。

 したがって,この方法ではこの主観世界の価値について語ることはできない。また同様に,この主観世界の目的についても語ることはできない。

 

【価値②】

 それでは,主体をこの主観世界として,価値対象もこの主観世界とすればよいと思うかもしれない。これを「価値②」としよう。

 

表15.4 価値②の場合

 

主体

価値対象=手段

目的

価値②

この主観世界

この主観世界が現われていること

動作概念

 

図15.4 価値②のイメージ

 

 このとき,目的は動作概念であり,手段(価値対象)はこの主観世界が現われていることである。すなわち,目的が手段(価値対象)の内部(中)にある場合である。

 このパターンは例えば,「人生の目的は何か?」「なぜ生きている/生まれてきたのか?」に対して,「ギターを弾くために生まれてきた。」「誰々を愛するために生まれてきた。」と答える場合と同じ構造である。「ギターを弾く」ことや「愛する」ことという目的を達成するためには,「人生」「生きている」という場(手段)を用意する必要があるというわけである。「人生」「生きている」という場がなければ,そもそも「ギターを弾く」ことや「愛する」ことができないということである。

 日常的な例では,以下のものと同じ構造であるようにも見える。「この会議の目的は何か?」に対して「この会議の中で新商品を開発するため」と答える場合や,「オリンピックに出場する目的は何か?」に対して「オリンピックで金メダルを取るため」と答える場合である。これらの目的を達成するためには,前提として手段となる場(「この会議」や「オリンピックに出場する」こと)を用意する必要があるという構造である。

 一見すると,これらは同じような構造にも見える。しかし,実はこれらは構造が異なっている。確かに,どちらも目的が手段(価値対象)の中に含まれているように思われる。どちらも,目的を達成するためには,手段となる場を用意する必要があるということになっている。しかし,後者(会議やオリンピック)は目的も手段も部分存在であるが,前者(人生)は目的は部分存在でも手段は全体場となっている。これがまずい。なぜか。

 先ほど,価値と選択は深い関係があると述べた。価値対象は手段でもあるため,価値対象(手段)は選択肢となりうるものである。だからこそ,それを手段と呼べる。ところで,選択肢となり,選択され実行されるには,手段(価値対象)は部分存在でなければならない。選択の主体である全体場の中で生成消滅する部分存在でなければ,それを選択し実行し生成消滅させることはできない。よって,このことから全体場としてのこの主観世界を手段,すなわち価値対象にすることはできないのである。

 つまり,「この会議」や「オリンピックに出場する」ことはこの主観世界の中で生成消滅する部分存在であるが,「人生」や「生きている」ことはこの主観世界の中で生成消滅する部分存在ではなく,この主観世界それ自体である。すなわち,この主観世界は注目対象にはなるが,価値対象にはできないということになる。これは「価値」の章でも述べたことであった。

 よって,「人生の目的は何か?」「なぜ生まれてきたか?」に対して,「ギターを弾くことが人生の目的である。」や「ギターを弾くために生まれてきた。」とは答えられない。なぜなら,全体場である「人生=この主観世界」は価値対象(外への判断対象)にできないからである。また,一般に,この形式では「人生の意味」「人生の目的」「人生の理由」「人生の価値」の問いに回答できないことになる。つまり,主体をこの主観世界にしたまま,この主観世界を価値対象にし,この主観世界の価値を語ることはできないということである。ここまでは,価値②は目的に動作概念をとる道具価値を中心に考えてきた。そして,この議論は目的を幸福とした幸福価値であっても成立すると思われる。

 

 このように,「主体=価値対象」にすることは構造的にできない。通常の価値では,主体は全体場である必要があり,価値対象は部分存在である必要があるからである。これを1つのものが同時に満たすことはできない。つまり,全体場かつ部分存在であるものは定義上存在しない。

 価値対象や目的は,主体の中で,生成・消滅するような部分存在でなければならない。したがって,この主観世界という主体の中で,この主観世界を部分存在にはできず,この主観世界を価値対象にすることもできない。

 

 おそらく,この主観世界は注目対象にはできる。この主観世界について注目することはできるように思われる。意識的には,この主観世界を一挙に把握(想起,思い出し,意識集中)して,その性質を分析しようとすることか。

 やはり,価値の対象化と注目の対象化は別に考えるべきだろう。注目はその対象を一挙に把握などができればよいのである。それに対して,価値の対象化は,条件がより厳しいと思われる。価値は突き詰めていくと個別価値になり,個別価値は価値対象(手段)だけでなく,目的(幸福)などを取る。そのため,これらの価値対象と目的を別々に捉える必要がある。よって,これら価値対象と目的は別々の部分存在である必要があることになる。そして,それらは外への判断対象となり,外への判断により結びつけられなければならない。

 

 このように,価値対象にならないことから,この主観世界の価値は語れないことになった。それで十分であるとは思われるが,実は,もし仮に何らかの方法によってその問題が解決したときにも,まだこの主観世界の価値を語れない理由(原因)がある。それは,この主観世界は定義上,「常に」あるものであるため,その価値の本当の実際値(実測値)を知ることはできないというものである。

 この主観世界の幸福価値は,実際値がどれくらいなのかを判断することができない。この主観世界が現れていることは,定義から常に行なわれており,この主観世界が現われているときに感じられた幸福のうちどのくらいが,この主観世界が現われていることによる幸福であるか断定できない。

 この主観世界の道具価値も,目的が通常の価値の構造では取れないようであるが,目的を差し置いたとしても,この主観世界が現われていることの道具としての価値もやはり,それが常に行なわれているために,その価値がどれほどか断定することができないと思われる。

 

 そもそも,「生まれた」というのは「私」には選べず,選択や価値の対象にならないのだろう。私がこの意識を望んだり選んだりして,この意識として「生まれてきた」わけではない。私がこの私(この主観世界)を望んだり選んだりして,この私(この主観世界)を生み出したわけではない。やはり構造的に,私が私自身を「生まれさせる」ことはできない。

 私は気づいたらすでに生きていたわけである。やはり,すでに生きてしまっている私には「私が生まれた」ということは語れないのだろう。「この主観世界が生まれた」と言えるためには,この主観世界を部分存在として内包する全体場「メタ主観世界」などが必要である。「メタ主観世界」なるものがこの主観世界を生まれさせる。

 

図15.5 メタ主観世界がこの主観世界を生み出すイメージ

 

 しかし,こんなメタ主観世界なるものは経験できず,存在しない。したがって,やはり「私が生まれた」「この主観世界が生まれた」と語ることは現実的にも構造的にもできない。

 

議論のまとめ

 ここまでの議論を改めて表にまとめるとこのようになる。

 

【満たすべき条件】

 (i)「価値対象=この主観世界が現われていること」とする。

 (ii)経験できないものは用いない。

 (iii)「通常の価値」の規則(主体は全体場,価値対象・目的は部分存在)に従う。

 

表15.5 価値①②と通常の価値③

 

価値対象と目的が生成消滅
する場になる(全体場)

    主体の中で生成したり消滅したりする(部分存在)

 

 
 

 
 

主体(全体場)

価値対象=手段(部分存在)

目的(部分存在)

可能か?

(メタ主観世界)

この主観世界が現われていること
(部分存在)

(メタ目的)

×

 

こちらを変えるか(A)

 

↑(A)

 

この主観世界
(全体場)

この主観世界が現われていること
(全体場)

動作概念・幸福

(部分存在)

×

 

     ↑両立しない↗︎

こちらを変えるか(B)

   

この主観世界
(全体場)

動作概念・動作(部分存在)

動作概念・幸福
(部分存在)

通常の価値

下線部が条件を満たせていない部分。

 

①メタ目的,メタ主観世界なるものなどは経験できない。よって,この主観世界の価値を語れない。

 

②価値対象は主体の中で生成・消滅できる(部分存在である)必要があるが,価値対象を主体とともにこの主観世界とするとこれができなくなる。この主観世界の中でこの主観世界が生成・消滅することなどできないからである。

 価値対象も主体も同時にこの主観世界にすることはできない。どちらかをこの主観世界ではないものに変更しなければならない。しかし,どちらを変更したとしても,この主観世界を価値対象として,この主観世界の価値を語ることはできない。

 

③通常の価値であるため,全体場のこの主観世界を価値対象にすることができず,この主観世界の価値を語れない。

 

 よって,①②③のいずれを考えても,この主観世界の価値が語れないということになる。つまり,条件(i)(ii)(iii)を同時に満たせない。したがって,この主観世界(全体場)がこの主観世界(全体場)の価値を語ることはできない。これは構造的にできないのである。価値が正常に語れないので,その価値対象の目的についても語れないことになる。このように,「通常の価値」をもとに考えると,この主観世界の「通常の価値」は語れないことになる。

 また,ここで考えている「人生の意味」とは,“外から見た”「人生の意味」なのだろう。

 

 この主観世界というのは価値を成立させるための土台であり,それ自体の価値を問うことができないものとなっている。この主観世界は価値が正常に語れるような価値対象を生み出す土台でもあり,この主観世界自体を対象化することは擬似的にしかできない(中からの対象化のみ可能)。唯一,「この主観世界が現われている。」ことは想定され,これが「私が生きている。」ことに相当する。しかし,この主観世界がどうであるかについては一部のみしか語れない(中への判断のみ)。また,この主観世界は経験できる限界であり,その外側にその目的となるようなものを経験することがそもそもできない。

 「人生」というのは「価値」を成立させるために必要なものであり,それ自体の価値を問うことはできない。その価値をどうしても問おうとするのならば,「メタ人生」なるものを用意せねばならず,このときに「人生の価値」は「メタ人生」という土台によって語れるかもしれないが,「メタ人生の価値」なるものは,やはりなお語れないままである。「人生」というのが経験できる全体であるならば,その価値を語ることは,やはり構造的にできないことになる。

 

 以上の議論によって,「人生の意味」「人生の価値」「人生の目的」「人生の理由」という表現はそもそも無意味であるということになる。人生は全体場で,この主観世界としての人生は現われているだけで価値対象にならず,それらの表現は意味をもたないからである。それらの表現は語の誤った組み合わせであり,そもそもそれらの表現が何を指しているのかがわからないと言ってよい。それらの語の組み合わせに対応する,概念の組み合わせが存在しないということでもある。我々はあくまで,「私が生きている。」「私の人生がある。」「この主観世界が現われている。」ということを擬似的に語れるだけである。

 だから,「人生の意味」の問いは我々の限界を超えたところにある,決して経験によっては答えられないような問いであった。「人生の意味」の問いはそもそも問いですらなかったと言えるかもしれない。答えられない問いなど,もはや問いと呼ぶに値しない。そこで,そのような「答えられない問い」のことを「妄問」と呼ぶことにする。それに対して,答えられる問いのことを「正問」とする。「人生の意味」という概念など我々は決してもちえない。「人生の意味」とは意味不明であり,そのような概念は存在しない。「人生の意味」なる概念は幻想である。

 

 むしろ,こういう問いを生み出した時点で,言語や概念の使い方を誤っていたのだろう。人間は長い年月の中で言語を発達させてきたが,その真の使い方をまだ知らないのかもしれない。そして,これから先も完全にわかることはないのかもしれない。そうやって言語をわからないなりに使っているのだろう。しかし少なくとも,「文法的に正しければ,語をどのように組み合わせてもよい。」というわけではなさそうである。文法以外にも,概念や個体の論理的,構造的に正しい結びつきの規則から決まるような,語の使用に対する規則があるように思われる。本質的に結合できない語の組み合わせが存在するということでもある。すなわち,「人生の意味」は言語の誤用でもある。

 

 ここで,重要な用語を整理しておく。まず,文は真偽が決まる 命題 と,真偽が決まらない 妄題 に分かれる。そして,命題の疑問形を 正問 ,妄題の疑問形を 妄問 と呼ぶ。

 

表15.6 平叙文・疑問文の種類

 

平叙文

 

疑問文

\begin{equation*} \text{ 文} \begin{cases} \text{ } \\[5px] \text{ } \end{cases} \end{equation*}

命題(真偽が決まる)

――――

正問

妄題(真偽が決まらない)

――――

妄問

 

本論文の結論

 以上の議論から,(4-a)「この主観世界が現われていることに価値はあるか? あるとすればその目的は何か?」および(4-b)「この主観世界が現われていることに幸福価値または総合価値はあるか?」には答えられないということになった。よって,「人生の意味」の問いには答えられない。 

 

定理
 「人生の意味」の問いには答えられない。

 

 そして,「人生の意味」は言語の誤用であり,「人生の意味」の問いは妄問であった。

 

定理
 「人生の意味」は言語の誤用である。
 「人生の意味」の問いは妄問である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

回答の補足など

 最後に、本論ではないが、「人生の意味」の問いへの回答について補足などをしておく。

 人生には意味(=価値)があるともないとも言えない。価値を語れないという結論に至ったが,これは暗に「人生は,頑張って生きても仕方ない,意味がない。」「人生は生きるべき価値があるわけではない。」と言っているのだろうか。いや,これは間違っている。

 「人生に意味がある」でもなく,「人生に意味はない」でもなく,「人生の意味は語れない(言えない)」ということである。「人生に意味(=価値)があるともないとも言えない」は丁寧に解釈しなければならない。図にして示すとこのようになる。

 

図15.6 「言えない」の意味

 

\begin{equation*} \text{人生の価値(意味)} \begin{cases} \text{言える×} \begin{cases} \text{ある×} \\[5px] \text{ない×} \end{cases} \\[15px] \text{言えない○} \end{cases} \end{equation*}

図15.7 「言えない」の構造

 

 よって,「『人生に意味がある』とは言えないなら,生きている意味はない。死んでしまおう。」とは言えない。

 

   「人生に意味があるとは言えない」≠「人生に意味はない」

となっている。

 

 この主観世界の価値は語ることができない。この主観世界に価値があるともないとも言えない。

 究極的には自殺行為によってこの主観世界がどうなるのかはわからない。しかし,仮にこの主観世界がなくなっても,続いたとしても,どちらの結果もよいとも悪いとも言えない。価値が言えない。結果に価値が言えないので,その行為(=手段)にも価値が言えない。

 我々は,幸せになるためには手段として価値のある行為をするべきで,(そうすることしかできないはず),手段としての価値の語れない自殺行為はするべきではない。もっと価値のある行為をするべきである。

 この主観世界には価値を語れないので,それが続いている(意識がある)ことがよいとも悪いとも言えない。そして,この主観世界は厳密にはどのような仕組みで成立しているのか,存続しているのかがわからない(おそらく知りえない)ので,続けようとかやめようとか言うこと自体無意味なのかもしれない。なぜなら,そんなことを議論しても思い通りになるとは言いきれないからである。

 この主観世界については,それが続いてあることをただ受け入れていくしかないのだろう。この主観世界は神秘なのだろう。

 

 自殺行為とこの主観世界の消失が結びついているかはわからない。

(1)結びついているとした場合,この主観世界の消失は価値があるともないとも言えないので,自殺行為も価値があるともないとも言えない。少なくとも「価値のある行為」ではないため,積極的にするべき行為とは言えない。

(2)結びついていないとした場合,自殺行為に何か別の目的がなければ,それを行なう価値はない。

以上より,自殺行為は基本的にするべき行為ではない。

 

 ここで,考えておきたい人生のパターンがもう1つある。それは,生まれ変わりである。現世に加え,前世がある場合を考えよう。

 

図15.8 前世と現世のイメージ

 

 前世などは,やはりはっきりとした輪郭はないので部分存在ではない。しかし,経験全体のうちの一部である。そこで,これを仮に「部分場」と呼ぼう。前世なども中からの対象化はできると思われるが,やはり外からの対象化ができず,外への判断ができない。したがって,前世なども価値を語れない。前世なども「始める」「選択する」と言うことができない。その主体がいないことになる。

 やはり,全体場もしくはその部分(部分場)をその「外」から価値づけすることは構造上できない。

 

 存在の定義で,「存在は経験に基づく。この主観世界の外側は経験できないため,存在を考えない。」としているので,この主観世界の外側にあるようなその目的(人生の目的)なるもの(や価値をつける主体)は存在するはずがない。当たり前である。

 この主観世界の外側,すなわち経験できないものに存在を認めるのならば,その思想(世界観)は「宗教」と呼ばれるのだろう。そして,この行為は「信じる」と言うのだろう。

 

\begin{equation*} \text{主観的世界観} \begin{cases} \text{外側なし⋯経験主義} \\[5px] \text{外側あり⋯宗教主義} \end{cases} \end{equation*}

図15.9 採りうる主観的世界観のパターン

 

 どちらも科学をするときにのみ,世界観を客観的(科学的)世界観にすればよい。

脚注

  1. (1-2)については少し表現を変えたが,内容は冒頭のものと同じと考えてよい。
  2. 念のため,広い意味の物理的な生命活動と解釈した問いにも後で回答する。
  3. 念のため,物理的な人の生命活動と解釈した問いにも後で回答する。
  4. 念のため,物的な体としての「私の人生」と「私は生きている」という意味で解釈した問いも後で回答する。
  5. 念のため,物理的に「私は生まれた」と解釈した問いにも後で回答する。
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